3.11とわたし。いわきから8年ぶりの干し柿。

最初に、「毎日更新します!」と公言しなくてよかった、と胸のなで下ろしながら2回目のブログ投稿です。はじめの投稿から一週間経ちました。この一週間の間に、来年フルマラソン出場を目指す私は、初の!駅伝大会に出場しました。初の!駅伝大会。走る距離5キロ!フルマラソンって何キロよ。ややや〜、フルマラソンへの道は遠い。


2回目の投稿で何を書く?、駅伝の話?、薬膳の話かハーブの話か~、色々悩んでいる間に3月11日を迎えました。


ほんとに、ついこの間の事、3.11。からもう8年も経っています。時間ってあってないようなもので、感じ方はそれぞれですよね。

 

毎年3.11を迎えると、「どうしているかな~」と思うのは大親友Aちゃんのお母さんです。

 

会ったことも、電話でお話をしたこともない大親友のお母さん。なんと私の母と同じ名前、そして平成皇后と同じ名前。美智子さん。今もいわきに住んでいらっしゃいます。


いわき出身のAちゃんは、現在は永住ビザを取って仕事をしながら単身カナダに住んでいますが、当時はカナダと日本を半年~一年くらいのスパンで行ったり来たりしていました。カナダで何をしたいわけでもないようなのだけど、よっぽどカナダが好きなようです。移民も住みやすく、人が優しい、自然が美しい、ほんとに水が合うということなのでしょうね。愛すべき自由人です。帰国している時は私の家に居候していました。当時、私は東京の品川大崎に住んでいました。再開発対象地区ではありましたが、まだ立ち退きも開始されていなく、木造住宅が多く、戸越銀座が近い、どこか下町風情のある穏やかな良い街でした。


2011年3月11日以前のある日、Aちゃんがいわきに一時的に帰った時か、お母さんから送られてきたのか、そのあたりがはっきり思い出せないのですが、Aちゃんの実家の庭でとれる、立派な柿でお母さんが作った「干し柿」を頂きました。


も~、これがとにかく美味、美味、美味。スラッとスリム、ヘタから下部に向かって真っすぐとシャープに皺が伸び、赤黒い実の表面は白くおしろいをしたように美しい。私は噛み切るのが大変なくらい、かた~い干し柿が好きで、お母さんの干し柿はまさにそれでした。私があまりに感動して、お母さんの干し柿を誉めちぎるものだから、Aちゃんは驚いたように半ばしらけたように「そんなに喜ぶの、祥子ちゃんぐらいだよ~」と。お母さんにすごく美味しいって伝えてよ、わがままを言えば毎年送ってくれると嬉しいと念を押しました。お母さんは何だかすごく嬉しかったようです。


そして2011年3月11日。言わずもがな、「いわき」は大変な思いをしました。震災当日から数日間の報道では「いわき」は忘れられた地域となっていました。もういろんなことがゴチャ混ぜとなって、私自身忘れかけていることも多いことが大変申し訳ないのだけど、確か福島原発から避難指示なのか避難勧告なのかのギリギリの地域だった「いわき」は、道路の状況が悪く、また当時の政府の体制では数値的、科学的根拠のない放射能の影響を懸念しての物資も届かない、「いわき」の現状を報道もされない、そんな状況でした。Aちゃんの家族は自宅避難をされていました。Aちゃんのお父さんが長らく御病気で臥せっており、避難所での生活が難しいとの家族の判断だったと記憶しています。まだ交通手段が回復されていなくて、実家に帰れないAちゃんが出先から私の携帯にメールをくれました。「いわきが全く孤立してしまって、物資も届かず、どこの地域の食糧も不安な状態、とにかく報道されないのは何故かと、家族が言ってる。祥子ちゃんの知り合いのマスコミの人に話だけでもしれもらえないか」そんな内容のメールでした。メールでしたが、Aちゃんが泣いている。そう感じました。震災から34日経っていたと思います。


夢の中にいるようなフワフワした感覚と、持って行き場のない焦燥感と、「薄っぺらかもしれない正義感じゃないか?でも言わないよりマシ」という思いで、とにかく某テレビ局に勤めている友人やチカラを貸して下さるかもしれない知人に、これは一視聴者として、一国民としてのクレームだと前置きし、ありのままメールしました。「分かりました、できる限りの事はします」すぐに双方からこの様な返信。そして数時間後、今まで報道されずにいた「孤立した地域いわき」、として、物資が足りず、大変な状況である事がニュースで報道されました。当然こういうクレームは沢山あったはずで、これがきっかけとは思わないけれど、そのテレビ局ではその後、小さい町の訴えや叫びが細かに伝えられるようになった気がしています。どのマスコミの人たちも、大震災の報道に加え、初めて経験する国内の原発事故の報道だったでしょうから本当に手探りで、辛かっただろうな、と思います。


程なく交通手段がかろうじて回復し、Aちゃんはいわきに帰りました。
そしてお父さんの病状が急変、亡くなりました。
震災から1ヶ月も経っていないくらいでしょうかガラケーのメールのやりとりが残っていたら、分かるのだけど。
震災で亡くなられた方々の遺体が多すぎて、火葬場が混んでいる、順番待ちで火葬してもらうまで1週間ほどかかったそうです。
心はボロボロだっただろうけどAちゃんはとにかく淡々としていて、ヨウ素剤が配布されるのだけど、年齢制限あって私はもらえないのよね〜ひどいよね〜と笑ってたり。こんなに強い人だったかな〜、と思ったのを覚えています。

 

あれから数年経ち、カナダに帰ったAちゃんにお母さんの干し柿をおねだりした時、「放射能の事もあって作っちゃいけないみたい」というような返信があって、美智子さんとご家族のことを思いました。

 

地震発生時、私は東京品川の自宅で一人出掛ける準備をしながら、立ったままぼんやりとテレビを観ていました。その時、最初の揺れが大きくて、でもいつものようにすぐ終わるだろうと一瞬思い、すぐにあれ、ちょっとヤバいかもと感じて、玄関のドアを開けてガス栓を止めて、ボロのスチールの大きな本棚がネットリと大きく揺れ始めたから、落ちてくる本から頭だけ横にそらして身を守りながら、その本棚を仁王立ちで支えながら、ヒラヒラ揺れて飛んでくるかもしれない液晶テレビを睨んでいました。その瞬間思ったのは、「もしこのまま避難するなどのことになるなら、化粧まで終わらしておくべきだった。」です。2、3分でしたよね、その揺れが収まって、フーッツと床にしゃがみ込み、そのまま腰が抜けて本当に力が入らなくて、立ち上がれなくなってしまいました。腰が抜けるって本当にあるんだと、その時はじめて知りました。そのまま20分もすると、テレビから想像し得えなかった映像と阿鼻叫喚の報道。

 

大きな被害もなく、その後も健全と過ごしていた私ですら、度々テレビからあの映像が流れる時、心臓がドキドキして身構えたり、チャンネルを変えたりしています。

 

そして昨年の末、「今年は良い柿が採れたから、干し柿、送ろうかってお母さんが」とAちゃんからの嬉しい一報。実にこれが2回目の美智子さんの干し柿です。もちろんでしょっ!と即答。そして2日後にはいわきから我が家に届きました。しっかりたっぷり送ってくださった〜。半分は早速、連日頬張って、残りの半分は真空にして冷凍保存です。年賀状でしっかりお礼を伝えさせていただきました。

 

一昨日の3月11日。干し柿を1つ、解凍していただきました。あれから8年。あれ〜そういえば『柿8年』だ〜〜、ほんとに。なんだかすごく。なんだかすごく感慨深く、ちょっと長くなってしまったけれど、備忘録としてブログに書きました。

 

 

 

 

 

ちなみに、柿はご存知のようにしっかりした栄養学的エビテンスもありますが、薬膳的にも優れた食薬です。化痰止咳平喘類(一般には、なんのこっちゃ、ですよね)に分類され、肺を潤して咳を落ち着かせたり、解毒作用もあります。お酒のあてにももってこいの食薬ですね。先日の薬膳のイベントでは、生柿と菊の花の酢の物を作りましたが、干し柿でもおいしいですね。薬膳のこと、書いていかなきゃですね。
干し柿のことを中国では『柿餅(しへい)』と書くようです。

2019.3.16 追記:Aちゃんは美魔女です。と付け加えろと本人が言うので。美魔女という言葉はあまり好きではないので、美女です。ほんとよ。